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このページは、石油便覧トップの中の第3編の中の第1章の中の第3節 中東石油資源の発見と共同支配のページです。




  1. メジャーズによる中東の石油共同支配
  2. 中東原油の躍進
  3. 利益折半方式の成立
  4. イランの石油国有化

1. メジャーズによる中東の石油共同支配

 第二次世界大戦後の石油産業は、国際的な性格をもつ比較的少数の大資本(メジャーズ)により、原油採掘から最終製品市場に至るまで一貫して事業が国際的に営まれていった点にその特徴がある。

 もちろん、こうした特徴は第二次大戦前から形づくられてきたものであるが、特に第二次大戦後は、世界の原油供給源が中東・アラブ地域に集中したこと、ヨーロッパや日本などの資源をもたない大消費国が原油を輸入して自国で製品を作る消費地精製を実行するようになったこと等により、メジャーズは中東を中心として大型の原油資源をジョイント・ベンチャーその他の方法で共同支配する体制を強化した。

 サウジアラビアの石油資源は、カリフォルニア・スタンダードとテキサス会社の共同出資会社アラムコ(Arabian American Oil Company:略称Aramco)の所有下にあったが、1947年に米系メジャーズ2社(ニュージャージー・スタンダード石油会社、ソコニー・バキューム石油会社)が新たに出資参加し、米国系メジャーズ4社が支配するところとなった。

 また、イランの石油資源は、後述する1951年のアングロ・イラニアン石油会社の国有化紛争の後、1954年に米系メジャーズ5社とブリティシュ・ペトロリアム(British Petroleum:BP)、シェル、フランス石油(CFP)および米国の中小石油会社の共同子会社イリコン(Irikon)の共同所有になった。このイラン石油資源の共同所有機構をイラニアン・コンソーシアム(Iranian Consortium)と呼ぶ。

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2. 中東原油の躍進

 第二次大戦後の国際石油産業の大きな変化は、戦前まで世界最大の石油輸出国であった米国が輸入国に転じたこと、中東が世界最大の原油供給源となったことである。

 戦後の石油産業は、1948年ころから本格的な発展を始めたとみることができるが、これ以降1955年までに、世界の原油生産量は年率7.4%の増加を示し、同年には約1,541万バレル/日となった。

 この間、1948年に世界総原油生産量の59%を占めた米国の比率は、1955年には44%にまで下がった。初めて石油の純輸入国に転じた1948年の同国の石油純輸入量は、国内需要の2.4%にすぎなかったが、その後急速に増大し、1955年には10.4%に達した。

 これに対し、中東は著しく重要性を増した。1948年の中東の原油生産量はベネズエラより少なく、世界計の12%であったが、1953年ころからは20%前後を占めるようになった。また、主要消費地である西ヨーロッパの石油輸入量に占める中東の比率が、1948年にはすでに49.2%に達し、1958年には80.8%に激増したことからもこのことは明らかである。

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3. 利益折半方式の成立

 米国、旧ソ連を除けば世界の産油地域の大半を占める中東、北アフリカ、南米等における石油産業の操業は、1900年以降、1950年に至るまで、欧米を中心とする国際石油資本、とりわけ7大メジャーズといわれる大手石油会社に付与された包括的利権契約に基づくものが主流を占めていた。

 これらの包括的利権は産油国が未成熟な段階で付与され、その期間は通常60年から70年以上にも及ぶ長期にわたるもので、利権を付与された石油会社は、広大な地域において、排他独占的な石油事業の操業権利を保有し、少額な利権料支払いの義務を負ったものの、産油国政府の意志が操業に介入する余地をほとんど与えずに事業活動を営んでいた。

 石油会社の対産油国政府支払いについて、所得税制を本格的に導入したのは、産油国の中でも先進的な地位にあったベネズエラが最初であった。同国は、1943年から石油産業に対する所得税制を施行し、1948年には新たに付加税を制定して、石油操業利益の50%が政府収入となることを保証する、いわゆる利益折半方式を実現させた。

 サウジアラビアは、原油FOB価格が1.70~1.90ドル/バレルであるのに対し、取り分が利権料の21セント程度に過ぎないことに不満をもち、ベネズエラに続いて1950年に利権折半方式を採用し、石油収入を約4倍に増やした。その後、イラク、クウェートもこれにならった。

 所得税制の導入は、石油会社つまり利権保有会社の対政府支払いを、それまでの利権契約に基づく従量税的利権料から、産油国国内法に基づく所得税納入に変えるものであった。

 この際、課税所得は実現価格ベースで計算されることになっていたが、米国以外の地域における原油公示価格の萌芽(ほうが)は、この価格に求めることができる。つまり石油会社は、この課税所得額算定の基準となる原油のバレル当たり輸出価格を公示する必要が生じ、ここに原油公示価格制度が導入されたのである。

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4. イランの石油国有化

 利益折半方式の一般化と時を同じくして、1951年にムハマド・モサデク(Muhammad Mossadegh)政権下のイランが、同国の石油産業を独占していたアングロ・イラニアン石油会社の国有化を断行した。

 イランのこの石油産業国有化は、国際石油資本とその本国による直接的、間接的な妨害にあって、結果的には失敗に帰し、モサデク失脚後の1954年にイランは、アングロ・イラニアン石油会社に代わって、米国資本が40%の権益を保有するイラニアン・コンソーシアムと作業請負契約を締結した。

 これは、石油産業国有化と同時に設立されたイラン国営石油会社(National Iranian Oil Company:NIOC)に鉱業権は留保されるものの、実質的には探鉱、開発を請け負ったコンソーシアムに全面的に操業が任され、従来の利権契約に基づく操業と実態的には変わりのないものであった。

 しかし、イランは新しく設立した国営石油会社の一定範囲での活動を確保し、また、国有化の大前提である石油資源に対する国家主権の主張を貫いた。中東産油国における資源ナショナリズムの歴史上、このことの意味は決して小さいものとはいえない。

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